昭和47年5月7日 朝の御理解
                         中村良一
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」



天地そのものが神様だと。天地の働きそのものが、神の働き、ね。天地そのものが神様だと。その働きそのものが、神様の御働き。ですから、観念的に、天地の神様が、神様の働きだと分っただけではいけません。その天地の神様、または、働きに対して、神恩報謝の心が湧いてくるという事になってくる時、初めて、信心生活という事が言えます。いわゆる、神恩報謝の生活。
今日は、私が、大体、四十八節、四十九節というその、御理解じゃなくて、四十八と、四十九というところを頂いたんですよね。しじゅう八節と、しじゅう九節。こら、どういう事だろうかと。この御教えの所が無い。そしたら、しじゅう八節というのは、何時もおかげの頂けれる姿勢でおる人という意味なんですね。いつも、始終という事は、何時でもという事。八というのは、広がりに広がっていくという事ですね。何時も、もう、それこそ、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代という様にです。何時も広がっていく姿勢。そういう信心をさせて頂いておる人。信心をさせて頂いておっても、または、何時も苦労、しじゅう九節ですね。何時も九、何時も苦労。何時も難儀が絶えない。何時も苦労が絶えないと、その、言う人。そういう、言うならタイプの人。もう、おかげを頂きに頂いていくと言う人。けるタイプの人。おかげを下さろうと、神様が致しましても、もう、おかげをよけていく様な生き方の人。その二つがあるんだと。だから、私共は、どうでも、四十八という、何時もおかげの頂けれるほうのタイプにならなければなりませんのだけれども。それぞれのテーブルというか、それぞれの性情性格と申しましょうか、ね。おかげを頂けれる場にあっても、おかげを受けられないような生き方になっていく人もあります。残念です。ですから、そこんところが、改まりです。
まぁ、どっちかと言うならば、私共は、おかげの頂けれんタイプだったと思うのですね。私は。ね。もう、出来るだけ仕事でも、人よりか楽な仕事がええと。ね。いわば、楽はしたい。朝はゆっくり寝たい。うまかもんな食べたい。良いものは着たい。まぁ、実力も無いのに、そういう心が、非常に強かった。だから、言うならば、あの、四十九のほうだった。自分で、そう思います。けれどもね、いわゆる、信心のおかげで、神様のおかげでね。それを改めていくことが、段々、出来て、今度は、おかげのいただけれるタイプに、段々変わって来つつあるという事。それが、私は、有難いと思います。だから、今日はね、四十八と四十九というところの御理解なんですよ。お互い一つ、ずっと、自分の胸に手を置いてみて、あぁ、自分こそ、おかげの頂けないタイプだなと。自分こそ、おかげの頂けれるタイプだなと、まぁ、自分で思えれるわけなんです。ね。自分の心の状態というものを見せて頂けば。
昨夜の御祈念を、西岡さんが当番でした。御祈念が終わってからのお話をしておられました。今、末永さんが、お習字の稽古をしておるらしい。その事からヒントを得てのこと。今、自身も、非常に字が、あんなに綺麗な字を書かれますし、勿論あれは、稽古した字でしょうね。一生懸命、稽古をなさるわけです。だから、信心と、その習字という事が、よく似ておるという事から、ね。そのためには、先ず、一つ、楷書から稽古をしなければいけない。ね。それに、ただ、意味は分からんなりに、人が行書で書いたり、草書で書いたりしたのを、見真似で、いわゆる、物真似的な書き方をする。なるほど、器用な人は、もう本当に、いわば、上手のように見えるけれども、ほんなら、その字ば、正確にこう、楷書で書いてみれと言うたっちゃ、書きはきらん。その様な事ではいけませんから、先ず、楷書から、もう、一点、一角から稽古をさせて貰わなければいけない。信心も、そんなもんだと言う話を、習字のことから、あの、信心の稽古という事について話をしておられた。私は、ここで、それを聞かせて頂いておりましたら、様々と頂きますことがね。今という字を、ね。今日の今ですかね、今と言う字。それに心という字を頂いた。
信心とは、ね。信心の稽古の、例えば、一点、一角といわれる。そういう事は、どういう事からかというと、先ず、自分の、今の心、ね。今の心。これを合わせてみなさい。御祈念の念という字になりますよ。今という字を書いて、心と言う字を書いたら。念という事は、祈るという事。ね。お念を極めていくという事なんです。だからもう、信心のね、もう、根本の、その信心を進めていくと言うのは、今日の御理解から言うと。神に会いたいと思えばと言うのを、形の上で会うとか、観念的に分ると言うのは、ははぁ、金光教では、天地を神様と言いよるとばいなと。その働きを、神様の働きと言いよるとばいなと。なるほどそうかと。もう、それだけなんです。けれども、実際、実感としてです。なるほど、神様じゃなぁと、そのその信心に対して、報謝の心が湧いてくる生活が、信心生活なんですよ。ね。だから、そういう神様を、なら、私共が、頂くことのためにね、私は、先ず、おかげを受けなければいけません。その、おかげを受けるためにはです。おかげの入る受け者という事を言われますが。おかげの受けられるタイプに、先ず、ならなければいけんです。
私のように、おかげの受けられない、その、要素ばっかりを持っておったら。出来るだけ、楽な仕事して、お金は余計儲かって、うまいものを食べて、朝はゆっくり寝て。どうですか、私が言いよるとが、みんな、私に当てはまってると言う人は無いでしょうか。はっはは、それじゃもう、絶対、おかげは受けられんですよ。ね。これは、いわゆる、四十九です。もう、何時も苦労しとらんならんです。そらなるほど、運が良うしてからです。まぁ、言うなら、百万円、宝くじの当たっとるごたる、運が良くて、金だけは儲かるかも知れんばってん、苦労は、絶対絶えないです。ね。子供が病気をするとか、ね。いわゆる、家庭の中に苦労は絶えないです。
信心で言うおかげは、もう本当にそうではない。ね。信心のおかげで、もう、万事万端の上に、お繰り合わせを頂いて、いよいよ、有難いと言うような心が募っていく様なおかげを頂くという事。ね。そこで初めて、神に会うことが出来る。本当の神様に会うことが出来るのです。なるほど、神様に、本当に会いたいと思うなら。だから、神様に会えれる心の状態というものが出来なきゃならない。ね。いわゆる、四十八、もう、何時も自分の心の状態が、おかげを頂く、もう、広がりに広がっていく心の状態というものが、心の中にあるか否かという事を、今、私の心を祈っていかなければならない。もう、何時も。信心とは、それなんです。別に、手間隙の要ることじゃない。いつも自分の心を見つめておることなんですから。なるほど、こういう汚いところを、こういう、ずるい心、こういう、浅ましい冷たい心。もう、これじゃおかげの頂けん筈だというのが分かる。今の自分というのは。ね。そこで、おかげのほんなら、頂けれる、まぁ、様相と言うものは、今申しました反対のことが出来れる人なんですけれども。まぁその、一二を、例を挙げて申しますならばね。
先ず、朝、早起きの出来ること、一つ。こらもう、昔から、早起きは三文の徳と言われておる。こらもう、皆さんもう、本当に早起きだけは、させて貰わなきゃいけませんです。ね。例えば、夕方の、そうですね、夕方の三時間と、朝の一時間と匹敵しましょう。いや、本当いうたら、もっともっと、私は、朝のひと時のほうが素晴らしいと思います。だから、先ず、朝早起きの出来る人にならにゃいけません。ね。だから、もう、朝早く起きると言うことが楽しい、一つ、生活態度というものがです。もう、今日は、日曜じゃけんいっちょ、ぐっすり休ませてくれんの。もうそれが、日曜の楽しみのごたる人がありますよね。だから、例えば、朝参りなんかを、こうやってなさる方はです。日曜であろうが、降ろうが照ろうが、その稽古が出来ておる方は、もう、おかげの頂く、一つの要素が、そこに出来てくるわけです。朝参りということは。
次にはね、親思いです。いわゆる、親孝行です。ね。親のことを、心から思う。どうしたなら、親に安心してもらえるじゃろうか、親に喜んでもらえるじゃろうかという様な心の状態の人は、絶対、おかげを受けます。そういう人が、信心になるのなら。ね。思い出し、切り出しでも思うごたるこっじゃ出来んです。もう、何時も、自分の心から、親が離れないと言う心の状態です。まぁ、これ二つだけでもですね。出来たら、いわゆる、四十八。もう、絶対、おかげの頂けれる心の状態が備わってくると思うですね。
私はその、親思いという事だけは、私はその、昔から、持っておったように思うです。こりゃもう、誰よりも強かったように思うです。そのためには、どんな犠牲でも、自分で犠牲にでもなろうと思う心が強かったように思う。ね。それが、段々、信心させて頂いて、おかげを頂いていくうちにです。ね。もっと素晴らしい、親を思えれるようになってきたという事です。
二三日前、ある教会の、まぁ、先生が参って見えて、色々、先生この、親教会のことを、先生は、どういう風に感じておられますかとこう言うた。こりゃ、私の心の底に、何時もある事ですから、もう、誰が何と言うたって、私の親教会は三井教会。もう、こら、合楽のある限り、ね。三井教会あって、私は合楽があるんだと思うとります。そうですかち言う訳なんです。ね。最近の、その、金光教の中で、親教会、手続き関係の問題が、もう、しばしば問題になる。いわゆる、親が横暴である。まるきり、弟子や、出社やらを、まるきりその、子分のように思うておる。自分の言うとおりにしなければ、もうそれは、おかげ落とすぞといったような事になっておる。これは、私が、以前に頂いたことでしたから、そのことを話したのですけれども、そういう、手続きの事なんかはね、もう、流れ来たって、流れさらせるもの。もし、私が、親教会として、ここで沢山のお弟子さんが出来ておりますから。その人達が、例えば、布教するとするとです、ね。もう、ここで信心の稽古をさせて頂いた。覚えて世に出たらです。もう、それは、流れさらさなければいけない。あんた、親教会を、忘れてどもおらんかと、親が言う事じゃない。それをその、反対のほうに逆流させようとする。子供が、親教会を大事にしない。そんな事でどうする。おかげ落とすといったような、まぁ、ある意味では脅迫されるような場合がある。もう、そのために、その方も、実はその事に非常に難儀を感じて、そのお参りをした来た先生なんです。ね。そして、もうその、親の、いわゆる、親先生と言う方の話を聞かせてもらうと、本当に、それが、なるほど、着いちゃいかれまいと思うような、親先生があるですね。お参りをする。お供えをすると機嫌が良い。何かの調子で、お参りが出来んと、もう、機嫌が、ぷんぷんさっしゃる。お供えしようと思うて、お供えが出来んと、もう、それこそ、お広間の隅にもおれんごと、当たらっしゃる。ね。そういう、その、悩みを持ってからの先生である。けれどもね、これは、私、五年前に頂いたんですけれども、ね。親は親たらずとも、子は子たれという事を頂いたことがある、ね。
例えば、もう、うちの、ね。親が、他所の親のごと良かならば、本当、親の孝行ばするけれども、もう、親がもう、本当に親がた無かけんで、親に、孝行しゅうごつなかと言うのであっては、もう、信心は無いです。親は、親たらずとも、子は子たらなければいかん。子の道を、ね。立てていかなければならない。なかなか、難しいことです。けれども、誰が何と言うても、私を産んでくれた親なのだから。誰が何と言うても、私の親、三井教会あって合楽があるのだから。これは、私一代のことじゃない、合楽のある限り、その関係というものは、なくなる事は無いのだ。ね。そこで、その先生に、私は申しました。まぁ例えば、私がね、例え、どれほどの御用が出来たと致しましてもです、ね。親教会に。例えば、ね。親先生は、流れ来たって流れさらせておられる訳ですよ、合楽を。ね。合楽に、どうせんならん、こうせんならんと言ったような事は、仰らんのです。けれどもその、子供としてはです。それを、親を慕うていくという信心。ね。もう、私共、今のごたりゃ、月に一回しかお参りが出来ません。その代わり、光昭と幹三郎が、毎日、日参させて貰う。月次祭にはお参りが出来ると言うような状態なんです。ね。この頃あんた、参ってこんじゃないか、何ていうような風は、親先生は、一つも仰らん。ね。言うならば、横着で参ってこんとじゃないという事を、まぁ、知っていただいておるからだと、こう思います。そら、真似方の御用が出来る。けれどもね、私はその、例え、よし、どういう御用が出来ても、それは、私は利払いと思うております。しかも私が、生涯かかって、御用をしたところでです。そらやっぱり、利払いなんです。しかも、私、生涯ではない。これは、もう、合楽のある限りなんです。ね。何代かかっても、その利払いというものは、払えるものではないと言う考え方なんです。私が、どなたに、良かったれだけ、御用をさせていただいてもです。それは、元金には、一つも触れよらん。ただ、利払いしよるだけのこと。しかも、何代それを続けておってもです。それは、やっぱり、利払いである。何代かかっても、元金が払えると言うことは、絶対無いと、私は思い込んでおる。その話をしたら、はぁ、そうですかと。おかげを頂く先生は違うと言うてから、言う意味のことを言われました。私は、事実そうです。どれだけの御用が出来たとて、本当に利払いです。なら、どれだけ御用が出来たから、元金に、少しは還したち言うこつは、絶対無いです。その大元というものは、ね。もう、絶対のものなんです。しかもそれは、何代かかってしても、元金が払えると言うことはありません。もう、元金が払えたら、それで最後です。さよならです。払えるはずは無い。合楽の信心の元を頂いておるのは、やはり、親教会である。私は、だからね、親に対するという事でもね。肉親の親、教えの親、そして、天地の親神様に対するところの思いも、そういう私は、頂き方をもって、神様に接するときにです。なるほど、神様じゃなぁという、そこに、おかげが、体験が生まれてくるとこう思う。ね。そこで初めて、神様の把握という事が出来るわけです。同時に、いわゆる、自分の、今の心を念ずるという事を頂いたのですけれども。分れば分るほど、思うことは、自分自身のめぐりの自覚であります。ね。
先ほど申しますようにね。楽して、金儲けしようと思う、ね。それだけの、いわば、価値もないのに、美味しいもの食べて、良いものを着て、ね。という様な、例えば、ずるい心というものはです。まぁ、私の家の一つのめぐりであったに違いはない。けれども、それを、言うならば、一生懸命で、克服していった。ね。人が、ね。例えば、八時間寝るならば、私は、その半分にしよう。ね。親を思う思いも、いよいよ、募っていくだけではない。いわゆる、本当の親へ、本当の親へと思いは高度なものになって行った。なるほど、それだけでも、おかげの頂けれる、いわゆる、始終、おかげの頂けれる道を、私は、辿らせていただいたと、自分で思うのです。
今日、私が、申しました、ね。とにかく、朝起きと、朝早起きをするという事と。親思いという事。これもう、絶対、その事を、例えば、信心によって、思い続けさせていただく限りです。おかげの頂けれる、いわゆる、四十八、何時もおかげの頂けれる、いわば、姿勢でおることになります。もし、それと反対の心が、心の中に頂けた時には、今こそ、めぐりが出て来とると思うて、それを、克服していくところの、いわゆる、修行をさせて貰うて、ね。なるほど、自分が、おかげ頂けん筈だと言ったようなものを見極めて、取り除いていかなきゃならん。
昨日の朝、朝の御祈念に、桜井先生が参っておられた。先生、今日はその、お前の近くに、何かこう、つぶらもうたごとして、蛇のようなものがあるのです。本当は、それはネクタイじゃったとこう言う。先生、どういうご真意があるでしょうか。新しいネクタイを拾いました。そりゃあんた、ネクタイは、首にこう巻きつけるとじゃけんで、そら、ぎゅうぎゅう締められるとじゃろうのと、私が、昨日、言うとった。したら、夕べは、今度は、夫婦で参って見えた、夜の御祈念に。で、そのネクタイを持って見えて、私が見た途端に、私もぞっとした。というのは、その模様がね。ちょうど、蛇のうろこのごたっとじゃん。ちょうど、青大将の色です、色が。こう、濃紺のですね、それに銀のね、こうやったあの、鱗がこうついとるじゃん。そして、やっぱ、それが気になるもんですから、わざわざもって見えてから、夫婦で。だから先生、このネクタイは、どうさせて頂こうか。もう、捨ちゅうごたるとじゃん、巻きつかれようごとなかもんじゃけん。(笑い)はっははは、そら、それでん、せっかくあーた、頂きなさったつじゃけん、あーた、巻きつけときなさらないかんですよ。はっはは、(笑い)ね。ネクタイち言うものは、ちょこっとばっかり曲がったら、もう見苦しい。ね。きちっと締めておる時に、そのネクタイの、言うならば、値打ちがあるのである。ね。何時も、めぐりの自覚というものを持ってですね。もう、自分は、誰よりも、それこそ、夫婦ながら、金光様の先生にならにゃんごと、めぐりの深いとじゃん。はっはは、ね。ただ事じゃない。だから、そういうめぐりの深い、桜井の家である、桜井先生達夫婦だと、ね。だから、何時もその、めぐりのおかげで、しゃんとしておると言う様な、おかげを頂かれるために、そのネクタイも捨てなさらんで、はめなさったが良いですよち言うて、申しましたことですけれどもね。もう、緩めようが無い。めぐりの自覚に立つという事。そういう生き方、そういう信心をさせて頂く時です。私は、いよいよ、信心が本格的な信心になっていくと、同時に、いよいよ、おかげの頂けれる。もう、何時もおかげの頂けれる姿勢でおれれる。それを、いよいよ、間違いの無いものにしていかなければならない。
人間には、それぞれ、根と言うものが、それぞれ違います。教祖は、それぞれの、根に応じてと言う意味のことを言うておられます。同じ辛抱でも、一時間しか辛抱出来ん人もありゃ。二時間しか辛抱の出来ん人もありゃ。十二時間でも、平気で、例えば、おれれる人もあります。例えば、座るなら、座るという事でも。ね。その根に応じてですから、神様が、お鍛え下さる。
昨日、私、ある方のことをお願いさせてもらいよったら。こんなことを頂いた。「焼いて固めて瓦にする」と頂いた。焼いて固めて、例えばね。ここでは、土のような信心と言われておりましょう。土のような信心をしろと。もう、その方なんかはもう、土のようなタイプの信心をしておられる。もう、一生懸命なさっておられるです。ね。けども、それをですね。焼いて固めて瓦にすると仰る。今、一生懸命、どうして、これほど、熱心な信心させて貰いよるとに、どうして、このような事が続くじゃろうかという様な所を、説いておられるです。けれども、神様はもう、私は、この方が、一番初めに、ご神縁を頂いた時に、神愛会という時代ですから、その、会員の一人ひとりを、色んな貝で、お知らせいただいとったです。雀貝とか、ほうそう貝とかね。まぁ、ちょっとした信者は、そのような貝でお知らせいただいとった。なかなか、味のあると言うのは、ハマグリのごたるとやらね。それから、ほら貝のごたるとやら。こら、えらい良かごたるばってん、こら、ほら貝のごたるとち言うごたるお知らせを頂きよった。初めから、ちゃんと分かる。神様が教えて下さるから。やっぱ、ハマグリのお知らせでも頂く人は、もう、本当に、段々、味の出てくる信心しますね。その方の場合はですね、私が、一番初めに頂いたのは、タニシを頂いたです。タニシ。あれはね、一年間、泥の中に生かっとったっちゃ、水気が無かったっちゃ死なん。もう、床の下にほうりこんどったっちゃ良かです。だからもう、あれを採ってきてから、そんなにね、保存食にされるところがあるです。蔵や、冷たいところへ入れとくなら、一年間でん、泥の中じゃなかったっちゃ、死なん。というほどに、辛抱強い訳です。というようなお知らせをいただいとったが、なるほど、本当に辛抱強いなと思うくらいでした。そしたら、神様がね。昨日、その方の事をお願いしよったら、ね。焼いて固めて瓦にすると仰った。泥をね、焼いて、固めて、しかも瓦という事はもう、絶対、おかげを、どんなにやっても、落とすことの無い、漏らすことの無い基礎を、今こそ、作ってやっておる時だと仰る。お礼申し上げずにはおられんて、だから。ね。だからもう、ほんな、ちょいと参って、ちょいとおかげ頂くごたるとは、私共は、おかげ頂きよるけん、これは立派なごたるけども、それは、辛抱力の無かけんで、根に応じて、おかげ下さりよるとと言うても良いですよ。ね。言うなら、たいした信心も出来ん。辛抱も出来んとに、おかげ頂きよるとならば、はぁ、神様が、この人は、根がないから、ね。おかげどんやらんなら、すぐ止めるからと言うて、下さるような場合もあるわけです、だから。ね。十年も、十五年も信心が続いて、しかも、一生懸命の信心をさせていただいとっても、それこそ、本当に、お恵みの水、一滴、感じられないような状態の人もあるんです。それこそ、焼いて固めて瓦になさっておられるわけです。ね。そして、大きなおかげをやった時でも、それが、狂わない。のめることがないほどしのおかげを下さることの為にですね。神様は、そういう働きがあっておるというような場合もあります。ね。そういう修行の間に、例えば、いよいよ、ね。親を思う心も募ってくるだろう。ね。
とにかく、人が、八時間寝るなら、私だん、例えば、それこそ、四時間か五時間に、ね。して、寝る時間でも、そういう工夫をしてから、おかげを頂こうと言うような心も、いよいよ募ってくる。そういうおかげの頂けれる状態が、いよいよ、身に付いて来るという事なんです。ね。だから、そういう、様々な、四十八、何時もおかげの頂けれるタイプにです。私共がならせていただく精進をしなければいけません。自分で、自分の胸に手を置いてみる、ね。今の心を眺めてみる。ね。朝、お参りでもさせて頂いて、御祈念でも頂いて、お話でも頂いておる時の状態は、もう、絶対、おかげの頂けれる状態だろうと思うけれど、一歩、教会を出ると、もう、おかげのいただけないほうの心に移って、変わっていきよる。これでは、幾ら、朝参りをしてもいけません。
いよいよ、おかげの頂けれるタイプ、ね。それを、四十八と、四十九という事で頂きました。それを、御理解十二節に、神に会おうと思えばと言うことは、本当に、実感として、神様を感じれれると言うこと。ただ、ここに、ねまぁ、いうならば、金光教の神感とでも申しましょうかね。神感、神様を、金光教では、かく見ておるというのは、天地そのものが神であり、その働きそのものが神の働きなのだという事が、ここでは、説明してあるわけですけれども、その神様を、じかに、なるほど神様じゃなと、実感して、感じれれるおかげを頂くためにです、ね。四十八の、言うなら、何時もおかげの頂けれるタイプにならせていただく精進。そこに、改まった上にも改まっていこう。磨いた上にも、磨いていこうとする信心が必要になってくるわけでございます。その中から、今日は、二つ、私は申しましたですね。朝、早起きをするという事。ね。それから、親を思うという事。その心がね、いよいよ身に付いて来るおかげを頂くならばです。これはもう、いよいよ、おかげの頂けれるタイプが出来て行きよると思うて、先ず、間違いないと思うですね。どうぞ。